(数年後のかれら)
この人が世界で唯一正しいのだと思っていた。
その人が進む道が人のあるべき姿で、自分が進むべき道で。その人の考えが、その人の紡ぐ言葉がすべて絶対だと思っていた。その人が「烏は白だ」と言い切るのなら、僕は易々と信じてしまっていただろう時期があった。
そんな僕の異常としかよべない崇拝を彼は、見限ることもなく嫌悪を覚えることもなく、ただ柔軟に受けとめてくれていた。僕にできるだけ正しい道を教えようと、烏は黒だと教えてくれた。僕がそのことに対して知ってますよと答えると、彼はゆっくりと目を細めてそうかい、といってくれた。僕はその笑顔が好きだった。まだ幼い彼が見せる、年相応の証だったように思えた。
「俄雨、知っているかい。烏はああ見えて白が本当なんだよ」
「そうだったんですか、それは知りませんでした」
「そうだよ。我々人間が彼らを邪険にし続けたから、彼らは美しい姿を捨てて憎悪を露にし黒へと姿を変えたんだ」
ぐつぐつ。目の前の鍋が穏やかな音をあげる。ぺらぺら、と彼の口がくるくると回る。耳の傍で聞こえるそれに意を唱えることもなく僕は鍋の中身を味見した。香辛料の辛さがちょうどいい。もう少し煮詰めて、最後にはちみつをいれてもう少し甘めのカレーにしよう。そうすればこの人も主食としてこれを摂取してくれる。ほおっておくとこの人は甘いものしかとってくれないから、僕は毎日できる限り彼の好みに合うように努力をする。雪見さんに言えばあきれられるそれを、面倒だと感じたことはなかった。
「憎悪で染められた黒だから、彼らは不吉の象徴として引き合いに出されるんでしょうか」
「そうだね。元は自分たちのせいだと知らず、勝手な話だとは思わないかい?」
鍋の火を緩めて、僕は洗い物をまとめてシンクへと移動した。後ろにいる彼も一緒に移動する。腰に添えられていた腕は回されて、僕のエプロンのポケット付近で緩く繋がれていた。電車ごっこのように僕らは狭い台所をゆっくり移動する。距離が近くなったせいか、彼の声がよく響いた。僕の好きな、心地のよい声だ。たとえそれが嘘を紡ぐ声でも、好きなものはすきなのだ。楽しげに吐かれるそれが僕にとっては尊いものなのだから。
「烏が先か、僕らが先か、どっちだったんでしょうね」
「俄雨は烏が嫌いかい?」
「家事をするものとしては、あまり」
僕を緩く抱いている右腕がすっと動いて、シンクの右横へと伸ばされる。そのまま食後にと思い用意した洗いたてのイチゴへとその手は届いてしまった。もっとも、彼の長い腕でもそれを少し遠く、なおかつ彼は僕を抱いている左腕を離す気はなかったので僕までも強引に右側へと連れていかされた。シンクから無理矢理離されたせいで、持っていたお皿はじゃぼんと勢いよく水貯めしていた洗面器に落とされる。プラスチック製のため割れなかったのは幸いだったが、彼の奇行のせいでシンク周りと僕は泡塗れになってしまった。もぐもぐとイチゴを粗食している我が家限定の烏は、僕の不満げな視線をもろともしない。愉快そうに微笑んで、顔についた泡をすくってくれた。
「ところで俄雨、烏はすべてが真っ黒なわけではなく、暗褐色に白斑のかわいい種もいるんだよ」
「えっ!そうなんですか?」
単純に知らなかった事実に僕が驚きを見せると、彼は泡を掬ってくれた手を頬から離すことなくつねってきた。むにゅりと指先に力が込められる。いたい、いたいです雷光さん!声を上げれば力は抜いてくれたが、頬に添えられた手のひらは離されることはなかった。端正な顔を少しだけ歪ませた雷光さんは、僕の腰を抱いていた左手ももう片方の頬へと添え、そのままはさみこまれる。
「がーう?」
「ふみまへん」
「ふふ」
戯れの嘘を最後まで通さなかったことにか、唐突に混ぜられた本当を見破られてしまったことが悔しいのか、雷光さんはむにむにと僕の頬をしばらく触り続けていた。目の前の表情も漏れる声も楽しげである。
実際に、うれしいのだろうな、と思う。僕らはこうやって冗談を言い合える間柄になれたのだ。昔の僕なら、冒頭の言葉で自分の中の常識を塗り替えてしまっただろう。彼の嘘に気付くこともなく、彼が嘘を吐くとすら考えられす彼の冗談を鵜呑みにしてかれを正義としていた。聡い彼はそれを重荷にしていたはずだ。僕は知らなかったけれど、彼は神様ではない。まだ少年を終えたばかりの背伸びをした子供だった。
「俄雨、謝る誠意があるならひとつ提案があるのだけれどね」
「ふぁい?」
「私は今日、オムライスが食べたいな」
ぐつぐつ。少し遠くにある鍋が穏やかな音をあげている。だいぶ煮込めたそれはあとはちみつを入れて調節すれば完成だ。わかりました明日はオムライスですね、と返せば今日食べたたいんだと駄々をこねられる。僕が言葉に詰まると狭い台所は無音になり、ぐつぐつと煮込む音が余計に響いた。
がう、とまた名を呼ばれる。うう、と唸ると目の前の愛しい人は柔らかに微笑んだ。知っていた。僕は、この笑顔にとても弱い。僕らは多くを変え成長することができたけれど、これだけは変わらない。盲目的に信じ彼のいうことをすべてしたがっていたあの時から、ずっと。
「……チキンライスでいいですか」
「クリームソースもかけて欲しいな」
彼はまた楽しげに笑い声を上げる。ふらふらと冷蔵庫までオムライスの材料を取りにいくと、当然のように彼もついてきた。ああ、鍋を早く止めなくては。カチリといいにおいを部屋に充満させているそれは、今日は日の目をみることはない。背後でカレーは二日目が美味しいからね、と声が飛んできた。色々言いたいことはあれどそれは確かに同意なので、僕はオムライスつくりを始める。
「俄雨」
「はい?」
「……いいや、続けておくれ」
甘い声で呼ばれたと思ったらまた腰に腕をまわされる。僕は神様の命令を聞いているのでない。彼のわがままを受け入れているのだ。昔の僕も、同じようにオムライス作りをはじめただろう。でききっとそれは彼の願いは聞かねばならないものという使命感が大きかった。じゃあ今は何故彼の言うことを聞くのかというと、それはまあ、惚れた弱みという奴だ。好きな人の我侭を叶えてやりたいと思うのは、万人に通じる思考だと思う。雪見さんに鼻で笑われそうだが、きっと昔の理由よりは納得してくれると思う。
僕の表情の変化をよみとったのか、雷光さんは緩く結ばれていた腕を狭め抱きめてくる。包丁持つときはできれば離れて欲しいのだが、何度それを願いでて却下されたわからないので諦めた。きっともうすぐ、たまねぎの効果で彼も目が痛くなってくるだろう。微かな報復に、それは黙っておいた。
お誕生日おめでとうわかちおしあわせに